幌内今昔物語

幌内歴史写真館

燃えるズリ山炭鉱の歴史

もう二度とトロッコが登ることのない今も、夕日の中に鮮やかに輝いています。

その築き上げられたズリ山の一つひとつの石に、明治から大正、昭和へと、先人達の汗と、涙と、そして叫びが、聞こえてくるような気がします。
の産業振興のため、石炭はその資源として早くから注目され、幌内炭山は多くの期待を込めて明治一二年開坑に着手しました。
当初続けられた囚人による採炭が廃止となる明治二七年以前から、本州各地からの集団移民が増えつづけ、幾春別・奔別・弥生・唐松と大小いくつもの炭鉱が開坑されていきました。
 
厳しい北国の生活、寒さに吹きさらしの棟割長屋、そして炭鉱労働の多くが危険を伴い、災害と背中合わせの中で、ヤマの人達は、なかま、近所づき合いをとおしてお互いに強い絆で結ばれて、辛くきびしい暮らしを守ってきました。
一大飛躍をはかる産業経済の振興と、相次ぐ戦争の中で、石炭はどんどん掘り出され、炭鉱も拡大していきました。
とくに、太平洋戦争のぼっ発で、軍需産業の、また昭和二〇年以降は、戦後の産業復興の担い手として、石炭産業は日増しに隆盛を誇っていきました。

しかし、昭和中期以降からのエネルギーの変せんで、石炭産業の後退がはじまり、昭和二七年の幾春別鉱、四五・六年の弥生、奔別礦と、次々と大手の炭鉱が閉山し、ついに、北海道で最も長い歴史を誇った幌内炭鉱も、平成元年九月にその幕を閉じました。
崩されて行くズリ山、次々と姿を消す大きな施設と住宅、炭鉱のまちはどこにもなくなりましたが、まだ、あっちの長屋、こっちの長屋から、楽しい話し声や笑い声が聞こえてくるようです。
ヤマで生きた人達のたくましい労働や生活を、これらの写真の中からたぐり、いつまでも次代へ語りついでいきたいものです。


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